新潟の地震被害のニュースに、阪神淡路大震災を思い出す。

視線の360度に、あらゆる災害があった。

もう10年近く前になる。

ともすれば遠くなる日のことを再び思う。

 

思い出したくない記憶だが、鮮明に覚えている場面がある。

その人、その人にとっての「震災」があり、一人ひとり、抱えるものが違う。

被災の程度が軽くとも、震災が引き金になって心の中で何かが砕け散った人もいる。

体験が深くて大きいほど、それを生かすまでには時間がかかる。

つらい経験から人は逃げてしまうこともある。
だが、じっくりと、心の中で持ち続けている人は必ずいる。

 

震災後しばらく、パソコンで日記を付けていたのだが、やがて止めていた。

何故か覚えていないのだが、そんな暇と時間がなかったのだろう。

震災から10年、細かい記憶が風化しないように綴ってみる。

 

★1995年1月17日 午前5時46分
 阪神淡路大震災が起きた。

 

                     震度7の分布


                    阪神間の地図

私の住んでいた「甲陽園界隈」

 当時住んでいた「イトーピア甲陽園」

 

当時、西宮市上ヶ原南町のマンションに住んでいて、震災にあった。

「ゴー」という轟音とともに、突き上げられるような激しい大地の揺れに目を覚ました。

家がきしみ、家じゅうのものが倒れる音を間近にしながら、なすすべなくベッドの上でしゃがみ込んだ。

はじめは、飛行機かなんか近くに墜落したのかと思った。

飛び起きて家族の安全を確認しようとしたが、電気がつかず当たりが見えない。

声をかけたところ、家内、長男、次男から返事があり、ともかく無事を確認。

しかし、家内が「動けない」との返事。

 

キャンプ用の懐中電灯を探しだし、家族のもとへ向かう。

居間には倒れた食器棚から食器が飛び出し、床中、ガラス片がぶちまけられている。

玄関に向かいスニーカーを履き、家族の靴を手に再び家族のもとへ

家内は子供の部屋に行こうとして、倒れてきた家具に挟まれている。

家具を押しのけ、助け出す。外傷はないようだ。

重い家具を一人で動かしたのを覚えていない。

 

家族を玄関に近い私の部屋に集める。

玄関扉が開くことを確認して、かましものをして扉を半開きにしておく。

子供達はおびえている。

家内はどうも背中を強く打ったようだ。後で判ったが背骨を圧迫骨折していた。

 

実家に電話をしたが不通だ。

実家は苦楽園の尾根の傾斜地にたっている。

尾根の崩壊など起こってないよなと自分に言い聞かせる。

 

本当に怖いと感じたのは余震であった。

本震も怖かったのだが、何が何かわからないうちに終わったという感じ

余震は、まだ薄暗い中何度も起こり、

「また来た」「また来た」とおびえながら夜が明けるのを待っていた。

どれほど夜明けが待ち遠しかったことか。

徐々に空が明るくなってきた。

 

屋外で出てみた時のあの不気味な静けさが忘れられない。

幸いマンションに大きな被害はないようだ。

車路のスロープ下の民家も大丈夫のようだ。

ただ道路が割れて水道水が噴出している。

 

ガスは止まっている。電気もまだだ。

そうだ。水を貯めておこう。

まだ水道は出ている。風呂や鍋に水をためた。

その後、しばらくして水は出なくなった。貯水タンクが空になったのだろう。

水が出なくなるというのは、何ともいえない切迫感をもたらす。

 

両親が心配だ。

家族に「余震があっても部屋から出るな」といい渡し、車で実家に向かう。

実家までは車で10分程度だ。

バス停近くの住宅が崩壊している。

その他の家屋の被害は余り見あたらない。

ただ道路がうねったようになっている。

いつもよりスピードを遅くしたので、15分程度で実家に着く。

 

家は無事、扉をたたき両親を呼ぶ。

けろっとした顔で母が顔を出す。

「凄い地震だったね。家の中ぐちゃぐちゃ」

中にはいると凄い状態だった。

足の踏み場のない状態。

父も無事であった。

建物の周りを回ってみる。

ブロックで構築した擁壁部に2〜4ミリ程度のひびが入っているが大丈夫だろう。

両親と家の無事を確認したので、マンションに戻ることにした。

 

行きと違う道で帰ってみた。

苦楽園の夙川にかかる橋が陥落していた。

 

住んでいるマンションの近くにある買い手が付いたマンションに回ってみた。

玄関部分に大きなクラックが入っている

廊下のサッシュ周りのコンクリート壁が壊れ大きなクラックが入っている。

2棟を繋ぐエキスパンション部も壊れている。

せっかく買い手が付いて近々本契約であったのに...

 

マンションに戻る途中、町中は不思議な静けさが漂っていた。

まるで次の余震に備え、町中息を潜めているようだ。

 

マンションに戻ると「どうだった」と家内が聞いてきた。

「おじいちゃんもおばあちゃんも家も大丈夫だった」

「この辺はそんなに被害がないようだ」

 

座間に住んでいる妹夫婦とやっと連絡が取れた。

山形の家内の実家にも連絡を入れた。

 

震災後数時間で電気は復旧し、テレビがついた。

想像もしなかった画像が飛び込んできた。

神戸市東灘区深江本町で阪神高速神戸線が635mにわたって倒壊している。

橋脚が根本から折れ、横倒しになっている。

あの揺れの大きさが理解できた気がした。

「えらいことになった。どれくらいの被害があるのだろう」と思った。

 

10時頃やっと会社と電話連絡が取れる。

当時、大阪中央区の鉄骨造高層ビルの作業現場に勤務していた。

鉄骨建て方中で、当日は、コンクリート打ちの予定であった。

電話に出ていた社員は「予定通り打ちましょうか」

彼は事態を把握していなかった。

「中止だ。今からそちらへ向かう。検査会社に連絡して待機していてもらってくれ。」

 

病院の手配が必要かも知れない。

食料品が不足するかも知れない。

置かれている状況がよく分からない。

家内の様子を確認し、子供達に言い聞かせて、車で現場に向かう。

 

山裾の甲陽園から南下し国道2号線に向かうにつれて、すさまじい光景が飛び込んでくる。

失われた風景に言葉が出ない。

国道2号線の角にあるマンションが層崩壊している。

武庫川を渡るといつも見慣れた景色に戻った。

 

午後2時頃現場に着いた。

仁川に住んでいる現場所長もきていた。

家内の状況を話し、吹田の病院を紹介してもらう。

 

現場に出てみると、タワークレーンのアンカーボルトが飴のように曲がっていた。

よく倒れなかったものだ。

建て方中の梁の上にワイヤーで固定していた鉄骨階段が傾いていた。

それ以外に重大な被害は見あたらなかった。

ふと視線を梅田方面に向けると、タワークレーンが倒壊し隣のビルに寄りかかっている現場が見えた。

この現場で同じ事が起こっていたらとぞっとする。

復旧工事は既に手配されていた。

 

構造体の詳細な被害調査が必要だ。

永年付き合いのある溶接検査会社の担当者が待機していてくれた。

検査要領を作成し、明日から5名の検査者の派遣を要請した。

部下に検査立ち会いを指示する。

 

家内の病院への搬送と身の回りの整理をするため、しばらく休ませてもらうことにした。

 

現場の近くで、食料品と飲み物を購入する。

午後5時過ぎに現場を出て自宅に向かうが、道路が以上に渋滞していた。

自宅に戻ったのは午後10時頃であった。

 

家内は痛むものの重傷ではない模様。

子供達は無口だ。

テレビから流れる映像は強烈だ。

慣れ親しんだ町が壊滅している。

 

寝られず、食べられず、精神的に追い詰められた状況で、翌朝となった。

 

★家内の実家、山形に疎開

翌朝、両親を向かいに行く。

家族がバラバラではいざというときに困る。

それに家内を病院に連れて行っている間に子供達を見ていてもらう必要があった。

 

吹田の病院に向かう車中、家内も景色の変貌に驚いていた。

 

病院で検査をしてもらったところ「背骨が圧迫骨折」していて、すぐに入院が必要とのこと

「子供を西宮において、入院できない」と家内が泣いた。

 

家内の実家の山形の病院に入院させ、子供達を山形に転校させることにした。

実家に電話をして山形病院を手配してもらった。

山形の教育委員会に電話をした。

「転校なら住民票を移してください」

「こっちは役所も通常の機能していないんです。何とかしてください。」

こういった押し問答を重ねた。

「上司と相談します。」

やっとこちらの状況を理解してもらえた。

 

伊丹空港まで家族を送った。

家族が別れるのは辛い。しかし安全を確保したい。

家族の安全を確保でき、初めて私も業務に打ち込める。

以後、両親に私のマンションに居てもらうことになる。

 

山形では、初めての被災地から受け入れであったと後で知る。

 

子供達は山形の学校へ編入した。

二人が小学校の校長室で、笑顔で話す姿が山形新聞に掲載された。

実家から送られてきた新聞には、久しぶりの笑顔があった。

スポーツ用品店からのスキー道具の提供があったと聞いた。

 

後日、山形新聞から取材の申し出があった。

マンションに取材に来られたときには、あらかた部屋の整理はすんでいた。

堆く積んだ書籍を背景にした私の記事が掲載された。

 

家内の具合も圧迫骨折であったが、そんなにひどくなく順調に回復した。

なんでも後数ミリ打った位置がずれていたら、大変なことになっていたと聞く。

私の厄を家内が被ってくれていたのだろうと思った。

 

後日家内の退院後、小学校、病院、山形教育委員会を訪れ、お礼を述べた。

教育委員会の黒岩さんを初め、本当にありがとうございました。

 

子供達が山形から西宮に帰るとき、

暖かく迎えてくれたクラスメートと分かれるつらさ

そして、ふるさと西宮の友達に会える嬉しさと不安があったと思う。

 

子供が通う学校でも不幸があった。

 

★違和感


NHKテレビを何度も見た。

被害の深刻さが刻々と分かって、アナウンサーの表情がどんどん悲痛になっていく。

生きることと、その対極にある死をこれでもかと見せつけられた。

 

阪急電車で武庫川を渡り、武庫川駅をすぎると、

何もなかったような景色が広がり、キツネにつままれたような気がした。

大阪に行くと、普通の生活があった。

夜になるとネオンがつき、街に人が繰り出している。

納得がいかなかった。

生と死、運と不運の差が数キロ離れているだけで簡単に分かれている。

 

大阪から西宮に帰るとき、普通の服を着た人たちは途中下車していき、

車内は次第に地味な色へと変化した。

黒っぽい色の服、スニーカー、背中にリュックという出で立ちの人たちが残っていく。

 

阪急電車は夙川駅周辺が被災し、梅田から西宮までしか運行していない。

西宮駅の南にあるマクドナルドには沢山の張り紙があり、被災地に訪れた人に情報を伝えていた。

 

色がなかった。町も人もがグレーになっていた。

粉じんで空気が濁っていて、みんなマスクをし、リュックにスニーカーで、無言で歩いていた。

本当に現実なのだろうかと、足がすくんだ。

 

大阪と違う現実がここにあった。

 

 

★ボランティアの支援、助け合い

幸いマンションに被害がなかったから避難生活を避けることが出来た。

 

私の留守中、マンションの向かいの小山さんは私の両親が居ること知って、

給水車がきたと重たいポリタンクを抱え届けてくださった。

「自分達のことでも目一杯の筈なのに」と両親は感激して泣いた。

 

上ヶ原中学校に給水車が来てくれていた。新潟ナンバーであったと思う。

係りの方にパンと飲み物をいただく。

「次にここに来る予定はありますか」と聞きましたが、それはわからないとのこと。

新潟からわざわざ応援に来てくださったということに

非常に心強いものを感じ、不安な中も、心は感謝でいっぱいだった。

 

テレビでは、西宮の体育館、御影公会堂などの被災した方の映像が流れてくる。

上ヶ原中学校の体育館も被災した人であふれていた。

この辺でもかなりの被害があったのだ。

 

関学の学生さんだろう。

必死になって配給や支援物の整理や被災した人の世話をされていた。

自分たちも被災者の筈なのに、頭が下がった。

 

水が出ないと言うことは、食事はもちろん、トイレ、風呂に困る。

「もう長い間お風呂に入っていない、お風呂に入りたい」という声を聞いた。

 

実家は山の上にあり、水源は町内会の井戸水であった。

風呂はボイラーで沸かすようにしていたため、震災後も風呂にはいることが出来た。

 

マンションでお世話になっている方に声をかけ、入っていただいた。

熱い風呂にはいると今までの緊張が解けていくのが判る。

一方で、辛い現実に戻って行かなくてはならない辛い思いがあった。

 

★サリン事件

震災の報道もオウム真理教のあの一連の事件によって影を潜めてしまった。

震災後2ヶ月くらいの、私たちが必死だったころだったと記憶している。

これも大事件であったから、無理ないとも思ったが...。

全国の人が阪神大震災に関心を失っていくことに焦りを感じた。

 

事件後、勤務していた現場の近くで警官による物々しい警戒がされていた。

オウム真理教の事務所があったのだ。

 

★門戸厄神の厄除大祭のこと


毎年1月18日、19日には、門戸厄神で厄除大祭がある。

私に勤務していた現場でも厄年に関係がある人を集め、厄払いに行く予定であった。

しかし、門戸厄神も大きな被害を受けていた。

 

私の厄は家内が祓ってくれたと思っている。

 

翌年、改めて関係者が集まり厄払いに訪れた。

初めて震災地に訪れた人も居て、

西宮北口から門戸厄神に向かう沿線から見える破壊し尽くされ手のつけられていない光景

青いビニールシートが延々と続く光景に息をのんでいた。

 

★被災度判定とり災証明

住んでいたマンションは部分的にタイルにクラックが入った程度でほとんど被害はなかった。

しかし、売却中の買い手の付いたマンションは、被害を受けた。

このマンションは被災度判定で「一部損壊」とされた。

エントランスに注意を示す「黄色い紙」が張られた中を出入りするのは気持ちのいい物ではない。

このマンションの復旧にも関わったが、いい思い出ではない。

後日、「一部損壊」では義援金がもらえないことになり、

一部の住人が役所に文句を言い、再調査の結果「半壊」に変わった。

「半壊マンション」のレッテルで資産価値は下がるのにと思った。

 

公的支援や勤務先の支援を得るのは「り災証明」がいる。

西宮市の広報でり災証明発行日が発表になった。

当日一番で市役所に駆けつけたが、すでに行列が出来ていた。

行政側の対応にも問題があった。

町毎に発行日を変えるなどの措置がなかったため、

全市から駆けつける人でたちまちパニック状態となった。

 

混乱の中、「り災証明」を発行してもらったが、見ず知らずの人と同居を示す証明書であった。

役所の担当者もパニック状態であった。

再発行してもらうと今度は「全壊」の証明であった。

やっとの事で「半壊」の正規の証明書を受け取る。

 

「一部損壊」から「半壊」になったことで、

結果的には、住宅ローン金利の優遇などのメリットがあった。

 

★被災建物調査・復旧

建設会社に努める技術者として被災建物を目の前にしていても建っても居られなかった。

友人知人の要請を受けて休日は被災地を飛び回った。

一番関わったのはルネ門戸の復興である。

管理組合理事会の要請を受け「顧問建築士」として、深く関わった。

 

1.実家 西宮市苦楽園3番町

  もちろん父の設計、建物の被害無し

  ブロックで構築した擁壁部に2〜4ミリ程度のひびが数カ所

  後日鉄板で補強した。

 

2.父が設計した御影の母の姉の家 神戸市東灘区住吉山手

  母校の神戸大学付属住吉中学校の近くにある造成地に建つ築30年ほどの鉄筋コンクリート造3階建て

  造成地に建ち斜面に近いことと、1階がピロティで駐車場となっていたことから心配であった。

  

父と車で御影に向かった。

  初めて、被害の少なかった甲陽園から、西宮市内、芦屋市内、東灘区を通過した。

  テレビの狭い画像とは違う。驚きの声も出ない。

  被災された方に祈るのみである。

  

  おばさんの家の前の居宅は、傾斜に建っていたが、斜面の崩壊で傾いていた。

  道路のアスファルトが割れていたが、おばさんの家は無事であった。

 「よくきてくれたね」

  「おじさんも大丈夫? よかったね。大きな余震が心配だから家を調査するよ」

 

  逐年数は経ってピロティ形式であったが、被害はなかった。

  父も自分が設計した建物が無事であることに喜んでいた。

 

3.父が設計した夙川深谷公園近くの住宅 西宮市深谷町

  深谷公園で地割れが発生していて、幅20cm程度の地割れの延長に家があり、

半地下のベタ基礎の床にクラックが発生していた。

  樹脂注入で補修

 

4.父が設計した六甲ケーブル下の鶴甲にある老人施設 神戸市東灘区鶴甲

  実はアルバイトで私が構造設計を担当した。

  建物は被害はなかったが地盤がゆるみ、屋外部の擁壁や階段などが壊れた。

 

5.父が設計した灘区のマンション 神戸市灘区城ノ内

  所有者が変わっていたようで、調査にきたと言ったら怪訝そうにされた。

  詳細な調査は出来なかったが、外観からは建物の被害無し。

 

6.母の友人の家 西宮市菊谷町

  夙川、苦楽園のいかりスーパー近くの母の友人の家

  鉄筋コンクリート壁式構造の家で旦那さんの友人の設計

  壁式構造で構造体に被害はなかったが、地盤がゆるみ建物が約10度傾斜

  木製の仕上げが傾き、扉が開かなくなっていた。

  扉の下に木片をあて、ハンマーでたたいて扉を開けた。

 

  後日、旦那さんの友人の設計で建て替えたらしい。

  ジャッキアップするだけで良かったのに...

 

7.家内の友人の家 西宮市一ヶ谷町

家内の一番の友人の家

  上ヶ原南小学校の南にある擂り鉢状になった造成地に建つ木造建物

  早期に復旧させるため工務店を経営する学生時代の友人に連絡を取り、飛んできてもらった。

門扉や建物に沿った水路に被害があるが建物は大きな被害がなかった。

配水管などが大丈夫か畳をめくって床下を確認したところ、

ベタ基礎構造になっており、施工状況も良好であったため、被害がなかった

 

  早期な対応に、新聞社に勤める旦那さんからお礼にと「越乃寒梅」を戴いた。

  その後、家のことの相談や修理には、いつも友人に連絡がある。

 

8.家内の友人の家 西宮市苦楽園3番町

  売却中マンションの1級建築士の方の実家 

  傾斜地に建つ鉄筋コンクリート造2階建ての住宅

  建物が傾斜したほか構造体の被害無し

  ジャッキアップ専門会社を紹介

 

9.生田消防署

  下が消防署で上部がマンションの複合建物

  知人の建設会社社長から調査依頼をうけた。

  1,2階が消防署であったが、

柱の主筋が露出し座屈し、耐力壁、コンクリート階段も大きくクラックが入っていた。

  しかし、公的機関と分譲住宅では、復興まで長い道のりが考えられる。

  「消防署が入っているからそのルートから復興が開始されるだろう。」

  でここは、その後関わらなかった。

 

10.売却中マンション

阪急甲陽園から歩いて15分くらいの緑の多い所にある

真南向きの7階建ての5階で20坪ほどの広さのマンションであった。

マンションの真南の道路は田んぼに続き行き止まり、その道路の南に児童公園がある。

子供のための環境として申し分ない。

そう思って長男が幼稚園入園児、中古物件であったが購入した。

 

実は、震災時、この所有していたマンションに住んでいなかった。

ちょうどバブル期に上昇したマンション価格も下がり、購入したのと同じくらいの価格になってきた。

マンションの築年数も公庫の融資機関が切れる時期に近づいている。

売るなら今かなと考えていた。

 

商社マンの知人が中国に転勤のため、

その方のマンションを借りてくれないかという申し出があった。

見ず知らずの人に貸したくないとのことであった。

間取りは約110m2の納戸付き4LDK。

家族全員が個室をもてる。賃料も安い。

で、マンションを売却し、知人のマンションを借りることにした。

 

1994年10月頃に買い手がつき年明けに本契約する予定であった。

年明けに大地震である。

玄関部分に大きなクラックが入っている

廊下のサッシュ周りのコンクリート壁が壊れ大きなクラックが入っている。

2棟を繋ぐエキスパンション部も壊れている。

エレベータは点検結果大丈夫であった。

 

まだ区分所有者であったため、管理組合理事長の依頼で

1級建築士を持つ住民と二人で復旧委員として活動した。

 

理事長の了解を取り、被災箇所の応急補強を知人の建設会社社長に依頼した。

 

建物の詳細調査を建物管理会社の関連会社に指示した。

その調査報告書の内容を友人の設計事務所所長と現地確認して「補修計画書」を作成した。

 

元施工の建設会社は無くなっている。

元施工の関連会社に施工の打診をしたが、その会社の施工建物への対応に追われ断られた。

すると、新たに建設会社を選定することになる。

「補修計画書」を基に3者の入札により施工会社を決定する必要があった。

応急補強を速やかにしてくれた建設会社、管理会社の推薦する建設会社の2社。

あと1社を知人の社長に相談し、紹介を受け3社見積もりを実施した。

 

共に活動した1級建築士を持つ委員と査定し理事長に報告した。

 

しかし、管理会社の関連事務所の横やりで管理組合および住民の意見がまとまらず

ルネ門戸の復興で知り合った弁護士に相談した。

すると「誠意を持ってやっても、そんな状況なら関わりを持たない方がいいですよ。」とのアドバイス

共に活動した1級建築士の住民の方と相談し、共に手を引くこととなった。

 

   このマンションの売却に当たっては、妹の旦那(大学教授)に相談した。

   手くけ金はもらっているが、震災で被害を受けた。

   本来なら資産価値は下がっているはずだ。

   その際売却価格はどうなるのか。

   不動産の仲介業者のパソコンも震災で壊れ、関係書類が取り出せなくなっていた。

   かなりの交渉を要したが、専用部分の修理をすることを条件として無事売却できた。

 

11.ルネ門戸

現在、ルネ門戸の近くに住んでいる。

これもルネ門戸の復興委員会としての活動に起因している。

ルネ門戸の公開空地が門厄神駅までの付近住民の通路となっている。

当時の復興委員会のメンバーとは、その通路でたまに出会う程度である。

 

本当は年1回くらい語り合いたい。

しかし、建物の竣工後、復興委員会のメンバーの不幸な出来事があった。

お互いたぶん、そのことが癒えていないのだろう。

この記録をお見せして見ようかと考えている。

 

ルネ門戸が被災マンションの中でもいち早く復興したのは、

復興委員会の壮絶な復興させるんだという信念と

改修のための積立金があったので、初期に必要な活動資金があったことではないだろうか。

 

以下、私が主に関与した事項を記すが、

法的な問題をクリアし、資金調達、返済に関わる所有者の負担軽減のための努力など

復興委員会の活動には目を見張る物があった。

これらについては、私が記録するのはふさわしくない。

語るべき方に語ってもらおう。

 

 

発 注 者

株式会社
ルネ門戸震災復興組合

設 計 監 理

株式会社飯田建築研究所

施   工

佐藤工業株式会社

構   造

SRC

階   数

13/1

面   積

敷地面積 5,0272
建築面積 1,889m2
延床面積 16,310m2

最高部高さ

42.40m

構成・規模

住戸 203戸
トランクルーム50

 

★復興委員会の要請を受け「顧問建築士」に

このマンションには会社のI友人が住んでいた。

建築設備のプロで、会社の設計室で何年か一緒に仕事をし、よく飲みにも行った友人である。

住んでいたマンションから車で10分程度だったので、

会社仲間とゴルフに行くとき、いつも迎えに行っていた。

 

震災後、大丈夫か訪れるとびっくりした。

全面足場がかかり、シートに覆われている。

どういうことか判らず、I友人に聞くと、

全面外装補修工事のため、足場が完成したばかりだという。

 

二人で見回って、愕然とした。

ルネ門戸はロ字型に2棟建っていたのだが、

1棟には大きな被害はないのだが、

もう1棟の廊下側の柱は全てX字型にクラックが入りせん断破壊していた。

破壊した部分のコンクリートには貝殻がある。

明らかに現在しようが規制されている海砂だ。

エキスパンション部分の床は競り合って、大きくうねった状態になっている。

避難用の屋外鉄骨階段もアンカーボルトが抜け大きく傾いている。

 

夕刻に緊急理事会を開くので是非きてほしいと要請を受けた。

 

緊急理事会で友人から構造設計の専門家で、今日、午前中見に来てくれた。

と紹介を受けた。

理事の方々の目はある意味で虚ろであった。

信じられない現実があるのだ。

 

所見を述べた。 

 @まず大きな問題は、2棟で被害の程度が大きく異なることである。

  所有者の意見をどうまとめていくかがポイントだ。

A補修と建て替えの両案がある。

 棟によって、所有者の意見は異なるだろう。

B補修するにはコンクリート強度などの調査を実施し現状把握する必要がある。

 また、現在見えない壁や床部分のコンクリートの状態も確認する必要がある。

 同時に、電気ガス水道などの配線配管類の被害も把握する必要がある。

Cしかし、破壊したコンクリートを見ると現在規制されている海砂が使用されていて、

 また、骨材としての石も見あたらない箇所もあり、材料・強度的問題があると考えられる。

Dこの建物は、構造設計法が強化された昭和56年以前の建物で、今の建築基準法での構造耐力はない。

現在の耐震基準に対しどの程度安全かを判定するには、調査結果から、耐震診断を実施する。

E耐震診断結果から補強する程度を設定し、補強設計を行うことになる。

Fこの建物の材料と強度を現在の基準に沿った建物に補強するとしたら、相当大がかりな工事となる。

 

G次に立て替えの場合の問題は、法改正への対応だ。

 この建物が設計され竣工した時期以降、法改正されている。

現在の法律に合致していない「既存不適格建築物」であり、現在の住戸数は確保できないだろう。

 

いずれにしても相当時間がかかる問題だ。

特にコミュニティが崩壊しないように合意形成をどうするかだ。

そして、まず余震に備えた応急補強が必要だ。

 

理事の方々はじっと聞かれていた。

Y理事(マンション管理会社を経営されていた)が「顧問建築士になってください。専門家が必要だ。」

「私はサラリーマンです。そんな重責に堪えることは出来ない。」

しかし、何人の理事、I友人からも懇願を受け、受託することにした。

 

そのあと、C弁護士、不動産鑑定士等が専門家が参画し、ルネ門戸復興へのプロジェクトが開始した。

後日、顧問料を払うと申し入れがあり、「顧問契約書」を交わした。

 

★応急補強

友人も知っている知人の建設会社のN社長へアポイントを取り、ルネ門戸で落ち合った。

N社長も被害のひどさに驚き、協力したいと言ってくれた。

せん断破壊した柱を補強するため、鉄骨で補強することにして、強度、施工性を協議した。

補強がむき出しであったら、見栄えも良くないし

破壊した部分への雨水の浸入も防ぐため、合板で囲うこととした。

N社長の迅速な対応で、1週間程度で全203戸の補強が完了した。

 

★建物調査

コンクリートと鉄筋に関する調査項目は以下の通りである。

 

試験体はN社長に応急補強時に採取してもらった。

試験体は公的試験所である「日本建築総合試験所」で検査をしてもらった。

 

結果は思った通りで、耐震診断する必要がないとも思った。

 

★施工会社の訪問

施工会社の社員の方も住民であっためか、施工会社が早期に訪れ、理事会で説明した。

そのとき訪れた社員と目があったとき、かなり驚いていた。

というのも彼は、大学院での先輩で研究室は違ったがお互い顔見知りであったからだ。

私は彼がその会社にいることを知っており、彼は私が勤めている会社を知っている。

「えつ、何故君が居るの」

はっきり言って、困惑しただろう。

何せ構造専門家が居るのだから、いい加減な素人相手の話は出来ない。

一通り、説明し膨大な金額の耐震診断費用を提示した。

 

後日、彼に会って建物調査結果の概要を伝えた。

それからは、復興委員会にアプローチしなくなった。

 

施工会社の責任を問うべきだという意見も委員会で出たこともあるが、

委員会の精力はひたすら復興へと注入されていった。

 

★耐震診断と補強設計

知人の構造設計事務所に被害の少ない棟だけ耐震診断・補強設計を依頼した。

被害の大きい棟の診断なんて要らない。

明らかに、補強できてもずっと住みたいと思う住民はいないだろう。

むろん年齢や経済的問題で住まざるを得ない人はいるだろうが、

 

診断結果の速報を委員会で報告した。

元々強度のないコンクリートと骨材の分離した海砂コンクリート。

すべに構造体がエイズに冒されているようなものだ。

補強設計の結果、大がかりな補強となり、

住居として受け容れられるものにはならなかった。

 

委員会の方針は速やかに決まった。建て替えだ。

建て替えを実現させるための活動が始まった。

 

★既存不適格建築物の問題

居住者が「既存不適格建物」であることを知らないことも大きな問題である。

古いマンションでは容積率や日影規制についての法改正により、

法に適さなくなった既存不適格建物である場合が多く、

従前の規模を確保することが困難であった。

 

設計は友人も知ってる宝塚の設計事務所に依頼した。

I先生とは、ある物件で一緒仕事をしたことがあった。

また、宝塚で震災を経験していた。

ルネ門戸を訪れ、「こりゃ大変だ。お手伝いしましょう。」と言ってくれた。

 

I先生は、西宮の建築指導課と打ち合わせを重ねたが、

「既存不適各建物」がやはりネックとなった。

その後、震災復興型総合設計制度による容積率の特例許可などの規制緩和による救済が行われた。

そして、3棟で構成される基本プランができ、元の住戸数が確保された。

 

しかし、そのうち1棟は13階建てとなった。

7階建てであった建物が、13階建てに...

周辺住民が反対する事が考えられる。

委員会は、町内会長、自治会長と密接な信頼関係の構築に努めた。

 

★阪急逆瀬川駅前 アピアホールでの総会

初めに委員会から趣旨説明が確認された。

まず法的な問題、「既存不適各建物」「区分所有法」など、法律をクリアせずして復興は出来ない。

 

私の役目は、建物調査結果、耐震診断結果、補強設計の結果の概要を説明することであった。

OHPを作成し、説明した。

参加した所有者の方々はじっと聞いている。

 

次に、設計事務所のI先生から「総合設計制度」を活用した建て替え計画案が説明された。

所有者の方の質問はほとんど、建て替え案に関する質疑であった。

「もっと南向きの住戸がとれないか」

「私は元々南向きだったから、今度も南向きの部屋に」

予想されていた意見であった。

 

この段階で所有者の気持ちの8割方は決まったのではないだろうか。

委員会の活動は「部屋割り」、「資産価値の評価」、「再建費」、「住宅ローン」等の研究に注がれ始めた。

 

★株式会社の設立

建替組合を結成して工事を発注するが、

この組合は法人格を有していないため、建設会社との契約が難しい。

再建事業参加者が出資をして株式会社を設立した。

 

ルネ門戸だけであろう会社を設立して復興した被災マンションは。

 

★引っ越し


建設中のルネ門戸の近くの新築マンションに引っ越した。

きっかけはルネ門戸の再建時、復興委員会の方と参考にモデルルームを見学したことだ。

アンケートに記入しパンフレットを手に入れた。

 

パンフレットを家内と「どのタイプがいい?」と話した。

はじめは、購入するつもりは無かったが、駅から近く、学校の校区が良かった。

甲東小学校、甲陵中学校、市立西宮高校

買い物の便利だ。

 

住んでいるマンションは友人から借りている。

いずれ出て行かなくてはならない。

今、各人が自分の部屋をもっている。

4LDKは最低条件だ。

4LDKの物件は少ない。

おっ、ペットも飼っていいことになっている。

 

4LDKは2タイプあった。

日照や窓からの風景をパンフレットで何度も現地で確認した。

抽選の結果、当選。

 

金策は何とかなった。

知人に易く貸してもらっていたので、蓄えも増えていた。

ローンの計算を開始した。

住宅金融公庫の金利も下がって、更に被災者には金利が下がる。

追い風だった。

 

★インディのこと

実は私は、幼稚園のころから犬を飼ってきた。

最初は雑種のプッチー、父の知人の車から迷い出したのを

父にお願いして知人から譲ってもらった。

小型犬で実に従順な犬であったが、フェラリアでなくなった。

 

次が秋田犬のゴン(正式には権龍)

父が知人から譲ってもらってきた。

こいつも従順でかわいいやつだった。

 

今のマンションに引っ越し後、

市内のペットショップを何度も見て回った。

震災の記憶を癒すのにもペットはいい。

それに子供達も動物を飼うことで心豊かになってもらいたい。

 

西宮サティのペットショップで、愛犬インディに出会った。

ウェルシュコーギー・ペンブロークのブラックにタン(黄褐色)の斑

一目で気に入ってしまった。

子供達に確認してもらい買うつもりであった。

 

家に帰ると長男はクラブで戻ってきていない。

居てもたってもおられず、次男を連れて購入した。

名前の由来は「インディ・ジョーンズ」の映画、
主人公のインディとは実はその飼い犬の名前である。

 

かわいい、いたずら者だ。

 

★神戸支店創設・転勤・ルミナリエ

震災の翌年、神戸総合営業所が神戸支店に昇格された。

私は作業現場を離れ、神戸支店の設計室に転勤となり、震災復興に関わることになった。

仮設事務所は神戸のメインストリート「フラワー通り」の神戸市役所の南にある東公園の南に面してあった。

この敷地は旧アメリカ領事館跡地であった。

 

東公園はルミナリエの会場になる。

神戸ルミナリエは、阪神・淡路大震災で亡くなられた方々への鎮魂と、

神戸市の復興と再生を願い大震災の年の1995年(平成7年)12月に初めて開催された。

 

その年の暮れ、ルミナリエの試験点灯が始まった。

初めて生で見た。

その美しさに鎮魂の思いを込め見とれていた。

 

自宅への帰り、阪急三宮とセンター外の間にある中華飯店「太平園」に席を予約した。

創業60年の「太平園」は、安く、早くそして旨い店だ。

両親、家族とルミナリエを楽しんだ後、食事をするためだ。

 

その週の土曜日、夕刻5時頃三宮に着きルミナリエを散策。

家族そろっての外出は何年ぶりだろう。

家族もその美しさに感激していた。

 

思った通り「太平閣」には、大勢の人が席空きを待っていた。

予約していて正解。

久しぶりの中華を堪能した。